もさくネコのセミリタイア生活

コミュ障、ぼっち、非リア、無能が少し、前向きな人生を模索するブログ

【読書感想】「なぜ人に会うのはつらいのか」佐藤優・斎藤環/相手を知り、暴力性を緩和していく

book review


もさくネコです。

今回は、中公新書ラクレ「なぜ人に会うのはつらいのか」(佐藤優斎藤環 著)の読書感想です。

 

結論

  • 人と会うのは「暴力」を感じるから、つらいのかもしれない。
  • だからお互いを知って少しずつ暴力性を緩和していこう。
  • 優生思想は、結局正しいかどうかわからない
  • 引きこもりは思想であり、もうちょっと広く認められてよいと思う

目次

基本情報

 

 

著者は、作家・元外務省主任分析官の佐藤優(まさる)さんと、精神科医斎藤環(たまき)さん。

佐藤さんは、書店に足を運べばだいたい名前を目にするぐらい多くの書籍を執筆されています。少し強面ですが、大変聡明な方だと思います。

斎藤さんは、ひきこもり関連の書籍で有名な方という印象です。

読もうと思った理由

私がコミュ障、ぼっち、非リア、無能で、人と会うことがつらいからです。

しばらくこの手の本は読んでいませんでしたが、今後のことを見据えて心構えをしておくために購入しました。

個人的見どころと感想

人と会うのは「暴力」

斎藤環さんは本書で、人と会うこと=暴力とおっしゃっています

違和感を感じる方もいらっしゃるでしょうが、どうしてでしょうか。

ここで言う暴力は「他者に対する力の行使」すべてを指す概念で、いいとか悪いとかいう価値判断とは無関係だということです。(P78)

上記の定義であれば、その通りです。

何かしらの力が行使されれば、何も起きていない平穏な状態から不穏な状態になる。何かしらの事が起きて、何かしらの結果が出る。

人間には警戒心があり、人と会えば少なからず恐怖を伴う

そういう意味で、暴力と表現されているのかなと思います。

 

それでも、まだ暴力という表現には違和感を拭いきれません。

なぜなら、誰にでもオープン&フレンドリーな、コミュ強な方もいらっしゃるからですが、まぁ極少数なのでしょう。

いろいろと思いを巡らせているうちに、過去に拝見した関連性のあるブログ記事が浮かんできました。

内容は、表面上コミュ強に見える人でも、粗相してしまわぬようにと関係性が崩壊するリスクを常に気にしながら、綱渡り状態で、真剣勝負でコミュニケーションを取っている人もいるというものでした。

自分も、何も慮らずにコミュ強をうらやましがるのではなく、見えにくい苦労にも目を向けなくてはと思います。

そうやって少しずつお互いを知っていくことで、人と会うことの暴力性を軽減していければなと思います。

優性思想の正当性

斎藤さんは、脳科学の信憑性について言及しています。

まだ未解明な部分がほとんどなのに、あたかも真実かのように伝えていることが割とあるようです。

そして、脳科学に基づいた優生思想についても警鐘を鳴らしています。

教科書的に言えば、優秀、純粋な遺伝子を継承していくためには、人為的な淘汰、すなわちそれにふさわしくない人間の「断種」や「安楽死」が容認されるべきだ、という考えです。

~そもそも「生についての価値判断は不可能」なんですね。

あらゆる価値の基盤が生命である以上、生そのものについてはそもそも理論階梯(かいてい)が違うため、価値判断ができない。

~生の価値づけを論ずる議論は、そもそも前提が間違っているわけです。(P151)

理解出来ている自信はないですが、恐らく以前私が書いた記事と関連しているのかなと思います。

このエントリーでは、目的論的アプローチで生きている価値を考えましたが、最終的な、普遍的な価値にはたどり着けず、結局人間がそれぞれ自分で勝手に見出すしかありませんでした。

つまり、少なくとも我々人間には生(生きていること)そのものに意味(価値)があるのかわからない、ということだと思います。

我々が「生」そのものの価値を考えようとしても、どこまで行っても部分的・短期的にしか捉えられず、全体的・長期的に「生」を正確に捉えることは出来ない。

いや、そもそも価値があるのかどうかすらわからない、ということを言いたいのだと思いました。

優生思想の是非については、機会があれば別記事に起こして考えてみたいと思います。

引きこもりは「思想」

最終章では、組織や学校の息苦しさからどう解放されるか、という話が展開されます。その中で、佐藤さんが行き着いた、ひきこもりについての仮説が紹介されていました。

~「目の前にある社会システムに従うのは困難だ。だから私は下りる」という思想だと感じるのです。~引きこもりは、単なる「現実逃避」や「サボり」とは違うということです。(P215)

さらに上記と関連して、イソップ童話の「酸っぱいぶどう」についての新たな解釈を紹介しています。

※「酸っぱいぶどう」は、木に実ったぶどうを食べようとしたキツネが、何度もジャンプしても届かず、あきらめて「どうせ酸っぱいぶどうだろ」と言って去っていくというお話です。

「俺は自分にとって無意味な競争からは下りて、自分に適した餌やねぐらを見つけるよ」という、それこそ現代的な思想として読み替えられるのではないか。(P220)

セミリタイアをしている自分にとっては、励まされ、心が救われる言葉ではあります。

ただ、豊かな社会であることや、他人に迷惑を掛けないこと、引きこもりは引きこもりでつらさがあり、諸々のデメリットを受け入れる覚悟があることなどが前提としてあるとは思います。

どのように生きるにしても、熟考を重ねて、自分が納得できる決断をすることが大事だと思います。

まとめの感想

人と会うのがつらい時は、メンタルだけでなくフィジカルのケアも重要だと思います。自己啓発本を読み漁り、メンタルだけで何とかしようとしても、私の場合は無理でした。

本書は紹介した以外にも、依存症の原因は脳ではないことなど、知的好奇心を満たしてくれる内容が盛りだくさんでした。

ただ、やはり一朝一夕には、人と会うつらさはなくならなさそうです。

それでも、本書を通じてヒントはもらえたと思います。

人と会うことの意義を考えさせられる、良書です。