無能・コミュ障のつらさと向き合い方
もさくネコです。
まだ仕事は決まりません。
希望していた職種はことごとくお祈りされました。
少しでも幸せになるためにセミリタイアをしたはずですが、全然幸せではありません。
働くにあたっていろいろな不安や恐怖が頭をもたげてきたので、向き合い方を考えてみました。
結論
- コミュ障は、頑張っても独りぼっちなのがつらい
- 無能さは、人一倍仕事ができないため、周りが冷たい態度になるのがつらい
- 対策は、環境を変えたり、いくつかの考え方を取り入れてみること
目次
コミュ障のつらさ
コミュ障のつらさの例を挙げると、
気付けば独りぼっち
ということが挙げられます。
↑上記エントリーでも書きましたが、私は気付けば周りから人が居なくなります。
周りが楽しそうにしているのを毎日見ている中で、自分だけ誰からも話しかけられない状況は、みじめに感じます。
一緒に居て楽しくなかったり、不快だったりするのでしょう。
気心の知れた友人と楽しく長話をする、ということは夢のまた夢です。
周囲の人達が普通にできているのが、不思議でなりません。
仲睦まじく、話ができるということは、吐き気を催すほどうらやましい。
話す際には、いろいろと気を遣っているつもりです。
例えば、
相手が話したいことはなにかを探りながら会話しています。
身振り手振り、表情、声のトーンなどに集中します。
自分がどう見られているかではなく、相手のほうに意識を向けるということです。
また、相手の話に対するこちらの反応も適度なものを心掛けています。
大げさすぎず、薄すぎずの反応を心掛けています。
反応もいくつかのバリエーションで対応します。
テンションを高くしたりして、何度も何度も失敗しているからです。
会話のキャッチボールも心掛けています。
なるべく一方的にならないよう、相手の話と自分の話の割合を7:3ぐらいにするのを心掛けています。
他にも、相手の間違いに気付いても、ズバリ指摘するのではなく、なるべく相手自身で気付けるようにしたり、ちょっと場を和ます形で伝えたりしています。
言い方も「何言ってるの?」とか「ダメ」などのネガティブなワードは使わず「こうできるといいかもね」という言い方をしたり気を付けています。
声のトーンにも、とげがないように、自分が言われてグサッとこないような言い方を心掛けています。
それでも全然うまくいかないし、私はいつも独りぼっちなのです。
自分ではわかりませんが、何かが決定的に欠けているようです。
無能のつらさ
仕事で苦労した例を挙げると
物事を深く考えられない
この仕事の最終目的は何か、そこから逆算して何が必要か、という基本的なことからできていませんでした。
また、ある出来事が起きた場合に、付随する様々なことを考えることができず、いろいろと失敗してきました。
(例えば、電車が遅延して会社に遅刻しそうになった時に、違う方法を使って間に合わす方法を考えることは思いつくけど、まず、上司への遅刻の連絡が必要ということは思いつかない、というような感じです。)
なので段取りを考えることもすごく苦手です。
物事を思い出せない→報告ができない
何があったかを思い出せなくて報告が出来ないということが非常に多くありました。
思い出せても頭の中で整理できなくて、「何言ってるかわからない」といわれるのはよくありました。
仕事を覚えるのに時間がかかる
人5倍ぐらい飲み込みが遅いです。1を聞いて1を知るのがやっとです。
周りは雑談しながら、定時上がりでできているにもかかわらず・・・。
そんなありさまだったので、最初は優しくしてくれた職場の方々も次第にきつく、冷たく接するようにさせてしまいました。
みじめでつらかったです。
無気力感と虚無感に苛まれる
日常生活でも、仕事でも、
また自分から人が離れていって
また自分の無能さを実感して
また他人の楽しそうな様子をうらやましく見るだけで
またあのつらさを経験しなければいけないのかと思うと
本当に吐き気が止まりません。
そして、それに対する成す術がないのです。
思い付く限りのことはやってきました。
自己啓発本も読み漁り、PDCAも回して、休日もプライベートを犠牲にして克服に取り組んできました。
それでも克服できないのです。状況が変わらないのです。
この状況にどう向き合っていくか
対人面、仕事面、両方ごっちゃになっていますが、いくつか挙げてみます。
なるべく人と関わらない仕事をする
人と接することが少なく、一人で黙々やる仕事ならば上記のようなことを感じることは少なくなるはずです。
問題は、そういう仕事に今現在就けなくて困っているのですが。
自分の能力に合った仕事を選ぶ
深い考えが必要だったり、臨機応変な対応が求められたり、コントロールができない要素が多い仕事だったり、マルチタスクが必要だったりする仕事は選ばないのが良いでしょう。
人に与える影響が大きすぎる仕事も辞めたほうが良いです。
相手の人生がかかっていますから。
自由ネコさんの考えを身に付ける
色々と調べているうちに、上記エントリーを発見しました。
こちらの方の考え、非常に参考になりました。
まともでない社会不適合者の自分が、あれも欲しい、これも欲しいと欲張りすぎていたんですね。
よい意味であきらめることが必要なのだとわかりました。
ただ、この考えを身に付けるのは一朝一夕にはいかないようですね。
濫用するのも危険なようです。
本当に、心が弱ってどうしようもないときに思い出すようにします。
気の合う人を探す旅と考える
こんな自分みたいな人間でも、もしかしたら世界78億人の中に、
1人くらいは気の合う人がいるかもしれません。
どうせなら、そのような人に出逢うことを人生の目標にしてしまおうと思います。
自分の人生を、気の合う人を探す旅に例えて生きていこうと思います。
そうは言っても自分の人生だと割り切る
上記の本の最後のほうに書かれてありました。
華々しく活躍するあの人、この人と比べて、自分の人生はどうしてこうなのかしら。しかし、そういうものでも抱きしめてあげることでイエスに変わる。イエスというのはつまり「愛」ですから、どんなに汚くてみすぼらしいものでも、それをしっかりといつくしんであげれば、それは愛になるのだ、とフローベルは言っている、というのが遠藤周作さんの解釈です。
どんなに汚くてかっこ悪いものでもあなた自身のこれまでの人生はかけがえのないものでしょう。そしてまた、これからの人生を愛してあげてほしい、と。
そうして、慈しんであげれば、それはやがてかけがえのない、輝きを持つなにかをあなたに与えてくれますよ、ということをフローベルは言おうとしているのかもしれません。
人と比べて、どんなに嘆いたって、絶望したって
自分は自分でしかありません。
こんなみじめでかっこ悪くて、みすぼらしい自分で、頑張るしかないのですね。
こんな自分でも、できる範囲で懸命に生きていけば、その先に
自分だけの輝きを持つなにかが手に入るかもしれません。
まとめと今後の方針
過去のエントリーと似たような内容になった気がします。
セミリタイアのジャンルと全然違う内容のような気もします。
腐らず、淡々と生きていきたいと思います。